「人によって」とは誰を指すか?
私が東洋医学が面白いと感じることの一つに、「同病異治」があります。
これは、「同じ病であっても人によって治法が違う」という因人の考え方が基礎にあります。
しかし、私が面白いと思うのは、この「人によって」ではありません。
私がいう「人によって」の「人」とは、「患者側」ではなく「治療側」なのです。
つまり、同じ病気であっても、治療側の弁証論治によって変わってきます。
これは西洋医学ではほぼありえません。
西洋医学では、「内科」「外科」「循環器科」「消化器科」など専門に分かれています。
しかし、東洋医学は「整体観念」であり、「全体性」を重視します。
この違いから一見、東洋医学の治療家は、均一な治療を行うように見えます。
ですが、実際はそうではありません。
これは、主に、その治療家が何を軸に弁証を組み立てるかによります。
私の場合は、「何がその人の中心か?」という、いわゆる「一蔵診断」とも呼ばれるものです。
例えばこれが、「土王説」を中心に考える方であれば、まず、「脾胃」を診ます。
「補土派」ともいわれ、脾胃と元気の関係を重視するのです。
脾胃は身体の中心であり、土台ですから、ここが傾くと、人が傾くのですね。
このように、人によって「軸」が違うことで弁証が変わってきます。
それで、どちらが良いかというと、「どちらも治る可能性がある」し、「どちらも治らない可能性がある」のが東洋医学です。
ですので、私で良くならなければ、他に行ってもらえばよいのです。
それは、私や、他の人の腕が悪いということでは必ずしもないのです。
その方が「何をもってその弁証を組み立てたのか」を知ることは、とても勉強にもなります。
これが面白いのです。
ところが、方証相対であれば、これは全て同じになります。
厳密にいえば、同じになるのが方証相対です。
方証相対は、人を診るのではなく、「血虚の人」「気虚の人」などと、人を分類しているからですね。
弁証で「表・寒・虚」であるならば、ほぼ100%「桂枝湯」を出すのです。
私が桂枝湯を勧めたことはほとんどありません。
桂枝湯を飲まなければいけないほど重症の人であるならば、一生、桂枝湯を飲まなければいけない可能性があります。
一時的に桂枝湯を飲まなければいけないレベルなのであれば、桂枝湯を飲まなくても、緩解させる方法を知っているからです。
いずれにしても、それ以外の方法を勧めます。
ですので、私は方証相対にあまり魅力を感じません。
みんなそれぞれ得意とする分野が違うのです。
ですが、西洋医学のように別々に分かれているのではなくて、みんな同じ土俵で戦っているのですね。
そして、何を軸にしていても、必ず「理」は共通しています。
これと照らし合わせて、治療家の方々は日々治療に励んでおられるのです。