中途半端
なぜ、そう考えるかというと、「理論が破綻する」からです。
例えば、「麻黄湯」がインフルエンザの予防効果があると近年いわれています。
言わずもがな、麻黄湯は「解表薬」です。
解表薬とは外邪が体内に入ったときに追い出すお薬ですね。
「外邪が体内に入ったときに」のどこに予防の効果があるのでしょうか?
近日の新型コロナウィルスの影響で頻りに取りざたされている「板藍根」についてもそうです。
板藍根は「清熱」の生薬です。体の内側の熱を下げる作用ですね。
体温を下げて、どうやって外邪と戦うのでしょうか?
そもそも漢方薬に「予防薬」の概念はないのです。
私の言っていることが正しいというわけではありません。
問題は、どちらも「いいとこ取り」を考えている場合です。
理論が破綻している時点で「いいとこ」、つまり、「適切な医療」と言えるでしょうか?
もっとも、東洋医学は「気」で人を変えます。
理論が破綻しているということは、何をやっても治法は破綻します。
しかしながら、逆に共通していることもあります。
これを私は「理」として見ています。
先日、twitterで「妊婦のヨクイニン使用について子宮収縮作用の可能性」をあげておられる方がいらっしゃいました。
大変、興味深かったです。
薏苡仁(ハトムギ)とは利水の生薬です。
利水ということは余計な水を(主に尿として)出す「瀉法」のお薬です。
結果として子宮収縮、すなわち、「異物を外に出そうとする」体の働きが起こると思われます。
妊婦に対して、理気、理血の生薬が慎用であるならば、利水のお薬であっても同様の可能性は十分に考えられるわけです。
私が重要視するのは、薏苡仁に含まれる筋弛緩作用ではありません。
人の身体の「摂理」を診るのです。
それを摂取することで、見えない身体の中がどうなるのかを診るのですね。
これを「弁証」というのです。
このように私は、西洋医学的文献を東洋医学的にどう解釈するかを推敲します。
あくまで東洋医学を「軸」において考えています。
中途半端な考え方は、治療法まで中途半端にします。
「軸」とは、木の根っこ、すなわち「本」です。
自分の「本」がぶれている人が、お客様の「本」を見抜けるわけはありません。